歓斯渇剌兜

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歓斯 渴剌兜(かんし かつらつとう[1]、? - 610年)は、歡斯とした、古代の島国流求国中国語版の国王であるが、その王室の系譜は不詳である[2]

流求国の所在については諸説があり、台湾とするもの、台湾近海の島とするもの、沖縄本島とするものなどがある。

最期:隋の侵攻[編集]

610年中国隋朝の将であった陳稜は、張鎮州中国語版とともに東陽の兵1万人余りを率いて海に出て、流求国に侵入し、ひと月余りをかけてこれを制圧した[3]。流求の人々は当初、外国から交易に来たものと見て、商売をしようとしたが、すぐさま侵入者であることがあらわになった[4]。知らせを聞いた渴剌兜は、流求の軍隊を迎撃に送り出した。しかし、隋軍の先鋒であった張鎮州に撃破された。陳稜は軍を率いて低没檀洞に至り、その小王の歓斯老模を破ってこれを斬り殺した[5]。陳稜は勝利を収めた後、軍を五方面に分けて流求国の都を攻めた。歓斯渇剌兜が自ら数千人の流求軍を率いて応戦したが、再び敗れて退いた[6]。陳稜は勝利に乗じて北へ追撃し、流求の都である波羅檀洞まで攻め上り、渴剌兜は城内で防御にあたって、双方の激戦が丸一日続いた[7]。流求の都城は隋軍によってついに陥落し、王宮や御殿は焼かれ、渇剌兜は斬り殺され、王子の歓斯島槌は、男女数千人の流求人とともに俘虜として中国へ連れて行かれた。これ以降、隋と流求の往来が再開されることはなかった[8][9]

脚注[編集]

  1. ^ 松岡正剛 (2015年8月3日). “高良倉吉 琉球の時代 大いなる歴史像を求めて”. 松岡正剛の千夜千冊. Matsuoka & Associates Co., Ltd.. 2024年5月4日閲覧。:この人物の名の日本語での読み方には諸説があり、「からと」、「かっしと」などとされることもある。
  2. ^ 《隋書·東夷列傳》:「其王姓歡斯氏,名渴剌兜,不知其由來有國代數也。」
  3. ^ 《隋書·陳稜列傳》:「大業三年,拜武賁郎將。後三歲,與朝請大夫張鎮周發東陽兵萬餘人,自義安泛海,擊流求國,月餘而至。」
  4. ^ 《隋書·陳稜列傳》:「流求人初見船艦,以為商旅,往往詣軍中貿易。棱率眾登岸,遣鎮周為先鋒。」
  5. ^ 《隋書·陳稜列傳》:「棱進至低沒檀洞,其小王歡斯老模率兵拒戰,棱擊敗之,斬老模。」
  6. ^ 《隋書·陳稜列傳》:「既而開霽,分為五軍,趣其都邑。渴剌兜率眾數千逆拒,棱遣鎮周又先鋒擊走之。」
  7. ^ 《隋書·陳稜列傳》:「棱乘勝逐北,至其柵,渴剌兜背柵而陣。棱盡銳擊之,從辰至未,苦鬥不息。」
  8. ^ 《隋書·陳稜列傳》:「渴剌兜自以軍疲,引入柵。棱遂填塹,攻破其柵,斬渴剌兜,獲其子島槌,虜男女數千而歸。」
  9. ^ 《隋書·東夷列傳》:「棱擊走之,進至其都,頻戰皆敗,焚其宮室,虜其男女數千人,載軍實而還。自爾遂絕。」

文献[編集]

関連項目[編集]